難民の本

宮尾登美子の続きもの。「櫂」「春燈」に続く「朱夏」を読んだ。実は書いた順番だと、「春燈」のほうが後らしいけれど。例の芸者紹介業の家のお嬢さんが、結婚して満州行って帰国するまでですな。

以前に阿部公房の「けものたちは故郷を目指す」かなんかを読んで、満州の広さに感心してしまって。行きたいとは露ほど思わなかったけれども、そういう圧倒的などうしようもなさというのは少し快感だというのを、覚えてしまったような気がする。で、「朱夏」で満州に行った綾子にもちょっとそういう風景を見せてもらうのが、楽しみだったのだ。が、それはさておき難民生活の部分を読んだら最後、じわじわと精神を蝕まれる。だって自分も犬以下になった気分に浸ってしまうから。

このシリーズを通して、綾子は戦争中であれ結婚して子供のいる身であれ、ずっとコンスタントに我侭放題だ。戦後生まれの自分が引け目を感じないで済む位に、お嬢様育ちで世間知らずで食い意地が張っているのに、さすが軍国主義教育で育てられただけあってお国の為に死ぬのは当たり前だったりする。それが終戦後に難民生活に入ると、妙に柔軟に何も持たないボトムラインの生活に殉じるようになる。綾子の周辺全員がそういうおもしろいちぐはぐさを持っているわけではなく、人それぞれの考えと対応は違うのだけれど。そんな人達が何を生きていく上でのよりどころにしているのかという違いが、ぎりぎりの生活をしていく一挙手一投足に表れてしまうのがいたましい。何がアリで何がナシなのか、例えば犬がくわえている肉を取り上げて食うのはアリだけど満州人と寝て饅頭をもらうのはナシとか、そんな風にして、人間としてのプライドを毎日値踏みしなきゃならないのがね。蝕まれるのですな。

この綾子が満州で一緒になった土佐開拓団に、洟垂れ小僧の時分に参加していたのが坂東英二。たまたま見ていたテレビで坂東が珍しく引き揚げについて話していた。帰国後も悲惨な運命が待っていた開拓団、という宮尾の記述そのままに、彼がたずねた「昔住んでいた場所」は高知の山の中のちょっとしたスペースでしかなく、長屋で何人も住んでいたとは信じがたいほど手狭だった。そんな前説が頭に入っていたせいか、綾子の難民生活は至極スムースにビジュアルとして頭に入ってきて、今現在でも難民生活を続けている様々な国の人と脳内リンクしてしまうのではないかというすんでのところで、急いで思考を遮断した。あぁ大変。

この続き「仁淀川」はまた終戦後の大変な生活の話なんだけど、もう飢えとかでお腹一杯だから読み返すの嫌なんだけど、やっぱりここまで読んでから「仁淀川」読むと違うんだろうなぁ・・・。

朱夏 (新潮文庫)

朱夏 (新潮文庫)