ただの繰り返し

最初に豊穣の海を読んだのは、たまたま手元に現金がなくて大学に行くのに困ったので図書券をくすねてきたからだった。500円券二枚で580円の文庫本を買えば、お釣りが500円券一枚で買えるどんな本よりもたくさんもらえる。

たまたま目にとまった500円台の文庫本が三島由紀夫の「春の雪」だったわけで、特に前知識があったわけではない。ちょうどそのころ大事な友人を春に雪崩れで亡くしたばかりで、自分の生活のほぼすべてが色あせてかさかさしているところに、三島のひつこいくらい流麗で細密な文章が染み渡っていったのを覚えている。空虚な時間をうめる華麗な装飾として、三島由紀夫の文章は超一級だった。飢えた子供が粥をすするようにして4巻まで一気に読み進んで、あっけないラストに「そりゃそうか、一本とられた」と思ったにも関わらず、長らく気に入った本のひとつに数えていたのは、やはり友人を亡くした直後に読んだ輪廻転生の物語だったという側面は無視できないだろう。

それから約10年。久しぶりにまた初めから豊穣の海を読み始めて、今度はその華麗すぎる文面には、描写力というより文筆フェチと評価せざるをえない生臭さを感じるようになった。特に2巻の奔馬では、恥らいもなくオネエサマ的な観察眼を披露する様に苦笑を禁じえないでいた。そのさなかに、今度は友人が陽のそそぐ雪山の断崖絶壁から滑落死した。時代の先駆けとなる事に見も心も捧げていた奇人という意味では、その友人には飯沼勲に通じるエキセントリックさがあり、また勲のように一般人からしてみれば一見くだらない行為に命を捧げたのだった。

そうなるとこの十数年で自分も、シリーズの著者の眼であり物語の語り部でもある本多同様のポジションに、傍観者として自動的にはめこまれてしまう。先に亡くなった友人の後釜にアルバイトに入る事で出会った次の友人。どちらの人物もその当時の自分のみならず、周辺と時代の空気を決定していたように思えるから、自然と次の10年が誰によってどのように彩られ、そしてその張本人が亡くなるのだろうかと不遜な想像を働かせることになる。

もし、豊穣の海を読み返す事が何かのきっかけとして作用しているのなら、私はこの本を封印してしまうだろうかと問えば、そこまで振り回されることもないと白けるくらいの涼しい心地を自分の中に蓄えているとは思う。とはいえ、ふと読み返してしまった時に大事な人を亡くせば「嗚呼!」と、何かたとえようもない重しを腹に感じるのではないかとも思う。

そんな関係を一辺の物語と結んでしまうのは、たとえようもなくロマンチストだとは思うが、ここに書いてしまう事で「他人に話した夢は正夢にならない」という迷信のような効果をどこかで望んでもいる。


豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)