くろうとの本

文庫本は電車で。そんなスローガンはどこにも掲げられていないけれど、せっかくコンパクトなのに家で文庫本を読むのは勿体無いと思う性質なのだ。が、たまにどうしても気になって読んでしまう。もっと気になると家出て電車降りて自動改札抜けて通りに出てもまだ歩きながら読んでいる。小学生の頃はランドセル背負って絵本広げて歩く子を「みっともねーガキだ」と思っていたのに。

そんな調子で宮尾登美子の『櫂』を読んだ。高知の芸妓紹介業を営む一家の人間ドラマで、その家の娘の話として『春燈』『朱夏』『仁淀川』と続く半自伝的小説。先に『仁淀川』を読んでしまったのだが、どっちみち『櫂』はおもしろい。ただ、これを読んだ後に『仁淀川』を読んだら結構違うだろうな。

『櫂』をずんずん読んでしまうのは大正〜昭和初期の高知、くろうとの世界といった異世界の中で、それぞれのキャラが立っているせいかもしれない。ドラマにするならガッツ石松をどこに配置しようかとか、配役を考えるだけでも楽しい。

あとは、宮尾作品を通じて特徴的な地の文がクセモノ。「これこれであれあれだからこんな気持ちになってしまうのも、このさきこうなってから見ればそうなのかーと分かるものの、この時はとにかくこれこれなのでした」という風な、昔夏休みにおばあちゃん家で見た朝の連続ドラマのナレーションのような言い回し。一人称のようでいて先を見越しているアンタは誰?的な立ち位置の語りが、この悲劇の多い小説を下手に湿っぽくさせない。本人の気持ちについて本人もここまでさくりと整理がついてなかろう〜ってところまで、適確に解き明かしていくのだから当然テンポが良い。でも、その分しっかりと描写されているので、読んでる方の感情の触れ幅は大きい。おかげさまで電車で向いに座る事になった人は、自分がうるうるしたり、ほんわかしたり、ふむふむしたり、なぬーってしているのを早まわしで見る事になったと・・・。

解説に宇野千代が「こんなにおもしろくする必要があったのか?」という賛辞を寄せていた。確かに、ここまでおもしろい人ばかり出てこなくても充分満足していたと思う。小説としてバランスがどうとかネタがこうとか、自分の半生を振り返りながら書くとそういう問題じゃなくなって、手加減なんかできないんじゃろなーと思ったけど。

櫂 (新潮文庫)

櫂 (新潮文庫)