追悼の本

おヒゲのダンディ嵐山光三郎については「文人悪食」でふれたが、今度は文学者の死に際しての追悼をめぐる研究「追悼の達人」を読んで、このオッサンへの敬意を新たにした。今となっては崇めたてまつられまくるしかないほどに伝説化してしまった、文学界の「権威」だとか「文豪」といった面々がいかに俗人だったのかを暴露させるにこの人の右に出るものはいない。
弔辞というのは、会葬者に向けて聞かせるものとはいえ、自分と故人との距離を計っての仕合のようなものにならざるをえない。これは他にも追悼するライバルがいるからでもあるのだろう。また、追悼文というのも後世に残される日記以上に、底意地が透けてしまうという脆弱性を持っている。そこであらゆる手管を駆使して文学者がどう文学者を追悼していったのか、というのを読み進めていくと、追悼もまたプロレスだということが分かる。ワークのつもりがガチになり、ヒールが出て盛り上がりもし、団体どうしの因縁もあれば、故人のレスラーとしての出来にかかわらずタイミングによっては閑散とした興行にもなる・・・。
今なら誰が死んだら興行的にも盛り上がるだろうか?と考えるまでもなく、こんなプロレスに本気で取り組むほど業界内(?)の熱気がないだろうという気がする。でも、このオッサンが死んだ時には追悼合戦に参戦できるようになっていたいかも、と生意気な事を考えた。長生きしてもらわなー。

追悼の達人 (新潮文庫)

追悼の達人 (新潮文庫)