いろんな死に方の本

3月までアニメ放映もされていた闘牌伝説アカギの「見えている人間は選べる」というキメ台詞がありまして。

「見えてる人間は選べるんですよ…!
見えていることをそのまま知らせること
見えてない時に見えている振りをすること
そして 見えていても 見えてないと装うこと…!自在っ……!」

これを言い切るアカギカッコエエ〜と思ってしまう自分には、同様の傲慢さがあります。自分には余計な部分まで見えてしまう資質があるという自負。ありていに言えば、平均以上の視界を持つ高性能な部類だという自覚のようなものです。

ねじまき鳥クロニクル」を読んでいると、この性能は(主人公も持ち合わせているのですが)少しも自在じゃないと思うようになります。むしろ自分が、どっかの大金持ちの軍事オタクが作った空母にでもなった気持ちにさせられます。どれだけ先進的で高性能であろうと、ドックを出る命令一つやってこない、どこかに出て行く宛さえもともとない。巨大な無駄のカタマリだったとある日突然気づくどうしようもなさったらありません。

お蔭様で二巻終わりから三巻の頭を読む頃に、まともな社会生活から零れ落ちてしまいました。会社も行かない、シャワーも浴びない、ぼさぼさ頭で本を読み、パタリと本を閉じて強制終了のように眠りに落ちてオカシナ夢を見る。そんな事を繰り返していると、背中からパリパリと音をたてて割れ目が縦に入って、中から肉だけが自重でずるりと剥け落ちて、自分が今落ちていける最底辺まで落ちてしましました。生きていく情熱のようなものがそっくり削がれた、ただのずるりとした肉のカタマリになるのは素敵とは言い難い体験です。

かといって主人公に同調したわけではありません。これは「感情移入」という言葉を毛嫌いしている理由の一つでもあるのですが、本を読むというのは、著者が用意した主人公のボディースーツのようなものに、自分の感情をちゅるちゅる〜っと流し込んでしゃあっとチャック閉めた奴が、グリッドマップの上を冒険していくのを一緒になってたゆんたゆん揺れながら楽しむもんではないと思っているからです。そんなんだったら本をパタンと閉じれば、冒険も終わりになるはずです。

結局、数ヶ月さぼっていた舞踊の猛レッスンをして自分の体と気持ちを同期させる事で、一番ひどい「ずるり」から快復しました。

どうしてここまで猛烈な気分を味わったのかは、分からないでもありませんが、これまでほど「見えている」気がしません。本とごっちゃになるくらいたくさんみた変な夢を書き込もうと思って開けた夢日記掲示板はなくなってました。ここ数年の夢の記録と一緒にいろいろ吹っ飛んでしまったのかと思うと、あまりに村上ワールドすぎて快復するどころか、余計にハマっていっている気がします。

すべてか整理されて気持ちよい状態になるまで、まだ時間がかかりそうですが、自分にはオットがいる事をひとまず嬉しく思います。(主人公の迷走は妻の失踪から始まったので)

いや、会社から帰るまでは分からないのだけど。(笑


ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)