ただの悪口

最後に書いたのが転職前の一番ダラダラの時。そして職を得てからビシっと放置、という妙な筋を通してしまいましたが、別に本を読んでいなかったというわけではないのです。確かに通勤時間が短すぎて本を持ち歩かなくなったのですが、それより書き記すという技能自体をすっかり忘れていました。人として、何かバランスを欠いていたに違いありません。

この間、読まなくても良かったと一番強く思ったのは「村上春樹論ー海辺のカフカを精読する」という新書。無粋この上ない。著者は「海辺のカフカ」のマーケティングにおいて「救済の文学だ!」というお題目ばかりが走りすぎた様子に怒り以上の恐怖を覚えたかもしれない。でも、そんな事をなぜか一切知らずにこの本を入り口に村上春樹のおもしろさに引き込まれた自分にとっては、迷惑千万としかいいようがない。そんな解釈本。評論未満という意味での解釈本。

解釈にオツな示唆がなにもない上、噛んで含めるようにくどい。退屈以上に害でさえある。これを読んで「謎は解けた!」とばかりに安心した、ウチの親父の頭の構造がわからない。というより、何故自分がそんな親父の娘なのかが分からない。本の悪口を書こうとおもったらとめどなく出て来そうなので、矛先を自分の方にむけてみた・・・

そのくらい、一生懸命引っ張り出した精神分析やら現代哲学ワードが結局30年前くらいのお粗末な社会論に帰結していて「えー!」「そこに行くのかよ!」って、疲れる。文字を毎秒読み進まないと死ぬような病気になったらどうぞ。

いろんな死に方の本

3月までアニメ放映もされていた闘牌伝説アカギの「見えている人間は選べる」というキメ台詞がありまして。

「見えてる人間は選べるんですよ…!
見えていることをそのまま知らせること
見えてない時に見えている振りをすること
そして 見えていても 見えてないと装うこと…!自在っ……!」

これを言い切るアカギカッコエエ〜と思ってしまう自分には、同様の傲慢さがあります。自分には余計な部分まで見えてしまう資質があるという自負。ありていに言えば、平均以上の視界を持つ高性能な部類だという自覚のようなものです。

ねじまき鳥クロニクル」を読んでいると、この性能は(主人公も持ち合わせているのですが)少しも自在じゃないと思うようになります。むしろ自分が、どっかの大金持ちの軍事オタクが作った空母にでもなった気持ちにさせられます。どれだけ先進的で高性能であろうと、ドックを出る命令一つやってこない、どこかに出て行く宛さえもともとない。巨大な無駄のカタマリだったとある日突然気づくどうしようもなさったらありません。

お蔭様で二巻終わりから三巻の頭を読む頃に、まともな社会生活から零れ落ちてしまいました。会社も行かない、シャワーも浴びない、ぼさぼさ頭で本を読み、パタリと本を閉じて強制終了のように眠りに落ちてオカシナ夢を見る。そんな事を繰り返していると、背中からパリパリと音をたてて割れ目が縦に入って、中から肉だけが自重でずるりと剥け落ちて、自分が今落ちていける最底辺まで落ちてしましました。生きていく情熱のようなものがそっくり削がれた、ただのずるりとした肉のカタマリになるのは素敵とは言い難い体験です。

かといって主人公に同調したわけではありません。これは「感情移入」という言葉を毛嫌いしている理由の一つでもあるのですが、本を読むというのは、著者が用意した主人公のボディースーツのようなものに、自分の感情をちゅるちゅる〜っと流し込んでしゃあっとチャック閉めた奴が、グリッドマップの上を冒険していくのを一緒になってたゆんたゆん揺れながら楽しむもんではないと思っているからです。そんなんだったら本をパタンと閉じれば、冒険も終わりになるはずです。

結局、数ヶ月さぼっていた舞踊の猛レッスンをして自分の体と気持ちを同期させる事で、一番ひどい「ずるり」から快復しました。

どうしてここまで猛烈な気分を味わったのかは、分からないでもありませんが、これまでほど「見えている」気がしません。本とごっちゃになるくらいたくさんみた変な夢を書き込もうと思って開けた夢日記掲示板はなくなってました。ここ数年の夢の記録と一緒にいろいろ吹っ飛んでしまったのかと思うと、あまりに村上ワールドすぎて快復するどころか、余計にハマっていっている気がします。

すべてか整理されて気持ちよい状態になるまで、まだ時間がかかりそうですが、自分にはオットがいる事をひとまず嬉しく思います。(主人公の迷走は妻の失踪から始まったので)

いや、会社から帰るまでは分からないのだけど。(笑


ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

タダの思い込み

今、家族の中で村上春樹が流行っています。むかーしむかし、村上春樹がはやったころから敬遠し続けていた意固地な母が、読むものがなくて仕方なく買ってきてみたところ(そのくらいはノンポリ)両親そろってハマって買いあさっている。

私はというと、村上春樹が好きだという人がなんとなく嫌い(偏見)なので、読まないでいたという間接的な理由だったので、「意外とおもしろいわよ」と親に言われれば読んでしまう。し、結構おもしろい。どうも、「村上春樹が好き」と男子が言うと、「僕は見た目のクールさとは裏腹に意外とナイーブなんだけど、いいから黙ってちんこ握って」と言われているのと同義だろうと思いこんでいたフシがある。読んだこともないのにね。(笑)

ということで、しばらくは村上週間。

お題目:変な家族列伝

さいころから「ウチは特別なのよ」と言われて育って、大きくなってみると親が言わんとしていた事と違った意味でなるほどウチは変わってるなと気づく。親の天然ぶりに気づくようになったとは、オレも大人になったなと。でもこの中で育ってしまって自分では気づけない天然さが残っているのだろうなと思うと、恐るべしっ「家族」。

そんな最小単位の小宇宙を好きな様に作っちゃっていいよという許し(=結婚)を得て「えーまじでーうほほほほ!」となっているこの時期に、ツッコミ不在の総ボケ家族列伝を紹介。

The山田家 1 (ヤングサンデーコミックススペシャル)
1、「the山田家」阿部潤 ヤングサンデーコミックスペシャル/各918円

お酒を飲むと2頭身キャラになる父:トムと毎日ハイパーにご機嫌な主婦:花子、この親にどうしてこんなまともな息子が?というみちるの三人家族の大変な日常をつづったマンガ。最初は変に力が入って不思議ちゃんを気取っている風味がだんだんこなれて絶妙に破天荒というかサイケデリックウルトラCのナンセンス日常生活ギャグがイチロー並みの打率で決まり出す。

なにかと自分の家族にそっくりなので「山田家の良心=みちる」の視線で楽しんでいたら、オットには「君は花子だよねー」と言われてそんなに母親と自分が似ているのかと愕然とした全7巻。
【正しい楽しみ方:無意味にオサレな登場人物のファッッソンに注目】

楡家の人びと (上巻) (新潮文庫)
2、「楡家の人びと」北杜夫 新潮文庫/上下巻各660円

精神病院を営む成金一家、楡家がブイブイいわせている戦前の様子から戦中、戦直後までを家族それぞれの視点から描いた名作。むしろアナタ達のほうがビョーキじゃないのってくらい偏った性癖の各人についてのやけに詳しい描写には嘲笑というよりはしぶとい民草への生暖かいまにゃざしが介在している。

登場人物は総ボケだが、淡々とてらいのない地の文が素直に楽しい。程度の低いツッコミ漫才に飽きた現代人の脳に染み入るユーモアセンスが素晴らしい。
【正しい楽しみ方:実写化した際のキャスティングに終始悩む】

群青の夜の羽毛布 (幻冬舎文庫)
3、「群青の夜の羽毛布」山本文緒 幻冬舎文庫/600円

ちょっと神経質なかんじがほっとけない女の子「さとる」。と、その家族。なんかちょっと変だなと思っている事がどんどんもっとオカシイ原因へとむかう、家族の謎解き大会。だいたい変な家族のペースに慣れてきそうなものだけど、この本の場合は逐一ギョっとする。

読み終えて遠くなってから思い返せば、フィクションだよそりゃイキスギよって言えるけれども、家族という突っ込み不在の最小単位の王国に呑まれてしまっているので、いっしょにキモい風呂に漬かってしまう。本上まなみの出た映画版はラストがちょっと違ってるぽい。
【間違った楽しみ方:なぜかエグニカオリの本だと思って見つからないでイライラする】

風俗小説の本

テクノでもトランスでもポップでもロックでも聞く。アンビやジャムバンドも聞くからマニアックなのかと思えば歌謡曲やアニメの主題歌も聞く。しかも趣味は比較的悪い方だと思われる。なのに、演歌だけはワンフレーズでも許せない。それと同じような調子で渡辺淳一の本が読めない。一挙手一投足がゆるせん。

「でも昔、病院ものを書いていた時はそれなりに面白かったのよ、医者だった人だし」というのを「それでもデビュー当時は歌も旨かったし、結構いい男でアイドルみたいなもんだったのよ」と読み替え、騙されたと思って古い作品を読んでみた。手にした「無影燈」の文庫版が出たのは昭和49年。確かにおもしろいー。

もっと手を抜いた小説でも、というよりそのほうが売れると気づくと安きに流れてしまうのだろうか。早急に結論を出す前に、他の初期作品も読んでみようかと思ったですよ。

無影燈(上) (文春文庫)

無影燈(上) (文春文庫)

アナーキーな本

世界で一番売れてしまっていると言われて久しいドラゴンボール。そろそろドラゴンボールを読んで育った文化も歴史も違った国の子供達が、結婚したり子供をもうける年頃になっていることでしょう。日本に憧れるあまり自分の子供に「ゴクウ」と名づけちゃったり、してそうだな・・・特に人口540万人なのにドラゴンボールの累積販売部数が100万部を超えてしまったデンマークとか。

亀仙人の破廉恥ぶりを日本の標準だと思われるのは赤面モノなのですが、久しぶりにじっくり読み返すと、そのアナーキーな世界観にビビります。お気楽なマンガを描き続けるには賢すぎたと思われる作者が少しずつねじれてくる様にもビビります。

全編を各国で翻訳したとは思いませんが、宗教がしっかり機能している国で「神様」(=デンデ)はなんと訳されたんでしょか。マイケル・ムーアの「華氏911」では中東の女性が「ヤー、アラー!ヤー、アラー!」と泣き叫んでいる時の字幕が「Oh my god! Oh my god!」みたいになってて、いや、そのGodに用はねえだろうと思いましたが。英語版のドラゴンボールでは「Kami」と、そのままになっているそうです。では、イスラム世界ではどうなってるんでしょかね?

ドラゴンボール 完全版 (1)   ジャンプコミックス

ドラゴンボール 完全版 (1) ジャンプコミックス

コイバナの本

小池真理子は特に好きじゃないのだけれども。読み出すとずずーっと足をとられるような具合で、読まずにはいられなくなる数少ない作家ではある。

登場人物の発散する魅力の傾向だとか、日本の文化人(?)を取り巻くある種の階級への憧れとか、70年代に青春を過ごした人たちの持つ時代の匂いだとか。そういった、団塊の世代には馴染み深い要素が、その子供世代の自分にはどうもなじめないというか、親の若い頃のアルバムを見ているような一種の居心地の悪さがぬぐいきれない。

自分がもう30年早く生まれていたら諸手をあげてファンになっていたかもしれないけれど、いや、そういう問題じゃないのかもなと「欲望」を読むと思う。小池流のコイバナに三島由紀夫が絡められているこの作品の最後で、「天人五衰」のラストと重ねたマンガみたいな演出に浸ってしまうところには参った。どうも世代格差だけじゃなくて、自己陶酔をどこまで許すかという好みの問題らしい。だからこう全編恥ずかしげもなく三島マンセーなんだ・・・。

とはいえ、また小池真理子を読むんだと。美意識に欠ける美人を愛でるのは楽しいから・・・って、これも三島な論理。結局ミイラ取りがミイラになって一本取られた。

欲望 (新潮文庫)

欲望 (新潮文庫)